82年に新しい立川相互病院が222床でオープンした。名実ともにブロック拠点病院として、また東京センターを準備する病院としてのスタートだった。そのために、大田病院から3人の医師派遣など、東京をはじめ人的支援を受けた。新病院は、「救急車を断らず受け入れる」ことをスローガンに、84年には三多摩で杏林大学病院に次ぐ救急車搬入台数(約3,000件)となった。手術件数や分娩件数、また外来患者数も大幅に増えた。その他ICU設置、シネアンギオ導入、整形外科開設、内科専門医教育関連機関など各種認定施設の取得等を進めた。看護婦も大幅に増え、89年には特III類の看護基準を取得した。
立川第一相互病院は、改修して83年に52床(後に65床)で再オープン、外来はなく、リハビリ、糖尿病、透析(15床、後に20床)を担うこととなった。また、地域住民の強い希望を受けて、84年に相互歯科が大田歯科からの歯科医師派遣により開設した。また、87年に、医療の過疎地域である武蔵村山市に伊奈平診療所が開設し、地元医師会からも歓迎された。一方、日野台診療所が改装・新築により2倍のスペースをもつ診療所に生まれ変わった。昭島相互病院は83年に増床し42床となった。これで健生会全体のベッド数は329床となった。
国の医薬分業政策がいっそう推し進められる中で、薬局法人を別法人として分離することとなり、株式会社「地域保健企画」が84年に発足した。保険調剤薬局はこのもとにおかれることとなった。83年に山梨勤医協が倒産し、「史上最大の医療倒産」と言われたが、15年間で債務を返済するという和議が成立し、健生会も含め全国の民医連の支援を受け再建を果たした。同じ83年に倒産状態に陥った東葛病院に対して、東京民医連は、同病院は民医連ではないが地域住民の要求に応えて医療支援を決めた。健生会からも医師幹部・事務幹部を長期にわたって派遣し、90年に病院を再建し、同病院は東京民医連に加盟した。また、87年に水俣病患者掘り起こしの関東初の集団検診が行われ、その後、認定を求める集団訴訟に発展したが、健生会の医師が積極的に参加をした。
85年に策定された健生会第2次長期計画は、東京民医連の第2次長期計画をふまえ、350〜500床の東京センター病院の建設を掲げた。そのためには立川相互病院の増築・増床しかないと判断し、87年に増床153床、計385床の建設計画が決まり、東京都に増床許可の申請を出した。ところが、まだ策定されてもいない「地域医療計画」にもとづく増床規制に沿わないとの理由で許可されなかった。これを受けて健生会は、協力会とともに翌年1月に「良い医療を求め立川相互病院の増床を支持する会」を組織し、10万の署名を集めて増床許可を求めることとした。この会には町会、団地自治会、老人会など100以上の組織が参加し、署名は急速に広がり、6月末には12万6千筆の署名という健生会史上かつてない数に達した。この署名に支えられ、東京都との交渉を繰り返した。また、反対していた立川医師会とも懇談し、理解を得た。こうした粘り強い運動により、ついに9月、東京都は増床を許可した。結果的には、113床の増床で345床の病床となった。
略年表 健生会のあゆみ
1982年
新しい立川相互病院を開設(222床)(立川第二相互病院が移行)
1983年
立川第一相互病院で理学療法室・作業療法室が認可、リハビリ病棟開始
立川第一相互病院増床、65床に。人工透析20床に。糖尿病教育入院開始。
昭島相互病院増床、39床に。
1984年
幹部医師及び事務局次長を東葛病院の支援に派遣
相互歯科開設
薬局法人として株式会社「地域保健企画」設立
1985年
健生会第二次長期計画を決定
日野台診療所リニューアル
第1回立川健康まつり
1986年
立川相互病院第1回赤ちゃん同窓会
1987年
立川相互病院が内科専門医教育関連病院に指定
伊奈平診療所開設
立川相互病院増床許可申請
1988年
「立川相互病院の増床を支持する会」結成総会
増床を支持する12万6千筆の署名を都に提出
東京都知事が113床の増床を許可
1989年
立川相互病院全病棟で基準看護特Ⅲ類を取得