1960-72 病院開設と事業所の拡大

立川相互病院を開設し、民医連綱領のもと信頼の地域医療を3市に広げていった

立川相互病院の開設

立川相互病院

立川相互病院

立川診療所は患者数の増加とともに医療スタッフも30人程度に増え、経営的にも安定していった。ベッドも17床まで増やしたが患者増に間に合わず、病院候補地を探すことに。結局、診療所の移転料を原資にホテル(現在地)を買収し、改修して60年に立川相互病院(24床)を開設した。

新病院のスタッフには、これまでの職員に加え赤羽病院(民医連方針から逸脱)から多くのスタッフが移ってきて、幹部として病院を支えた。病院化により患者は増え、外来があふれるようになったので、往診を強化するとともに、分院として61年に錦町6丁目に立川第一診療所を開設した(64年まで)。

昭島診療所の開設、「健康のいずみ」創刊など

昭島診療所

昭島診療所

昭島市でも、全日自労、中小工場労働者、在日朝鮮人などを中心に診療所建設の運動が始まり、62年に8床の有床診療所として昭島診療所が開設した。64年には18床に増床され、昭島診療所には産科も小児科もあり、地域から大きな信頼を集めた。

機関紙「健康のいずみ」が65年から発行、76年以降は毎月発行している。72年に健生会職員共済組合が発足、年々発展してきた。69年には老人医療費無料化の運動が広がり、革新都政のもと無料化が実現した。

民医連綱領の確立

革新都政で老人医療費無料化を実施

革新都政で老人医療費無料化を実施

60年前後に健生会も参加した民医連のとりくみとして、生活保護の基準は憲法25条の生存権に反すると訴え、「人間裁判」、といわれた朝日訴訟、三池炭鉱労働者の大量首切り反対の長期スト支援活動、前近代的な人権無視の労働条件改善を求める病院ストへの連帯支援活動、大流行したポリオ(小児マヒ)をくい止めるために大量の生ワクチンの緊急輸入を求めた母親たちの運動などがある。これらのとりくみをふまえ、61年、長年の綱領論争に終止符を打って新しい綱領が採択された。この綱領は2010年まで約半世紀の間、民医連運動の羅針盤となった記念すべき綱領である。「働く人々の医療機関」「患者の立場に立った親切でよい医療」「人類の生命と健康を破壊する戦争政策に反対」など、民医連の性格と目的が明確に規定された。綱領を決めた総会には、健生会からも積極的な提案をして、綱領確立に貢献した。

立川第二相互病院・日野台診療所の開設

立川相互病院のベッドが足りなくなり、増築は無理ということで64年に錦町4丁目に立川第二相互病院を開設した。33床で出発し、すぐに51床に増床した。中央検査室や手術室など設備も充実し、レントゲン検診車も購入した(77年に透析室も設置)。日野台共立診療所は、60年代の所長による私物化とのたたかいを経て、新たに健生会日野台診療所として65年に開設した。68年に、立川相互病院が向かいの場所に移転し、50床(すぐに60床になる)の立川第一相互病院として開設した。これで、第一は外来、往診、外科手術、分娩、第二は、内科の病棟医療が中心という位置づけとなった。こうして、健生会は3市にまたがる2病院・2診療所となった。

立川第二相互病院
立川第二相互病院
日野台診療所
日野台診療所

略年表
1960年
立川相互病院開設(24床)
法人名を健生会と改称
連日、安保反対の国会デモに参加
三池闘争に医療班を派遣
1961年
立川相互病院付属第一診療所開設(64年まで)
小児マヒ・ワクチンの緊急輸入を求める署名にとりくむ
全日本民医連総会で綱領を改定
1962年
昭島診療所開設(8床)
1963年
府中診療所開設(後に健生会に合流)
1964年
立川第二相互病院開設(33床、さらに51床に)
むさしの共立診療所開設を援助
1965年
「健康のいずみ」創刊
日野台共立診療所を所長が私物化、裁判闘争へ(73年まで)
健生会日野台診療所を開設
1966年
立川市で全国初の結核予防法と国保の完全併用による無料化を実現
1967年
立川第二相互病院増床、77床に
1968年
立川相互病院が移転し、立川第一相互病院を開設(50床)
1969年
老人医療費無料化運動高まる。東京都で老人医療費無料化実施。
1970年
立川第一、第二相互病院老人健診673名
1971年
第一相互病院で基準看護実施
立川市長に革新統一の阿部行蔵氏が当選(〜75年)
1972年
健生会共済組合が発足

次(1973-81 青年看護師・看護婦を多数迎え入れ)へ