1973-81 青年看護師・看護婦を多数迎え入れ

新しい力を受け入れ、育て、医療内容を高め、新病院を準備していった

新卒医師の入職と卒後研修開始

人工透析(第二相互病院内)を開始

人工透析(第二相互病院内)を開始

73年から新卒医師がまとまって入職するようになり、医師の卒後研修が徐々に形成されていった。研修が進むにつれ、専門分野を選択するようになり、医療技術の構築・高度化が格段と進むようになった。その中で、75年に劇症肝炎の患者を昼夜を問わぬ継続的な大勢の献血による交換輸血で救うという出来事があり、患者・家族・地域からの信頼を大きく高めた。東京民医連においては青年医師の会がつくられ、医師研修の充実を求めて、東京センター病院の実現が求められた。

新卒看護婦の卒後研修開始

看護婦の研修

看護婦の研修

74年から新卒看護婦がまとまって入職するようになり、看護婦の卒後研修が始まった。研修カリキュラムはみんなでつくりあげていくという状況で、年を重ねるごとに中身が充実していった。東京民医連でも「若い看護婦の会」が結成され、横のつながりをつくって同じ世代で学びあっていった。そのことがまた新たに看護婦を確保していく力となった。こうした中で、健生会の各病院は、基準看護特II類を取得し、看護のレベルアップを進めていった。

経営状況、協力会の発足など

健生会協力会が発足

健生会協力会が発足

この時期は、事業所数は変わらず、ベッド数は増えているものの患者数は多少増えている程度だったが、医療の専門化・高度化により事業収入は大幅に増加した。しかし、黒字基調ではなく、借入金も増大していた。一方、医薬分業の流れが強まり、調剤薬局を病院から分離するようになっていく。共同組織としては、健生会協力会が80年に発足し、職員と一体となって「健康まつり」を開催するなど発展していった。社保活動では、公害問題へのとりくみが活発化し、NO2測定運動などに参加した。

健生会第1次長期計画から新病院建設へ

昭島相互病院

昭島相互病院

74年に「健生会の長期医療構想とその計画」(第1次長期計画)が出され、東京長期計画を三多摩ブロック及び健生会で具体化し実践する計画として、ブロック拠点病院の建設、立川を中心とする地域基幹病院づくり、医療技術者の育成強化を掲げた。この計画にもとづいて、76年に昭島診療所が病院化し、昭島相互病院となった。しかし、拠点病院建設は、日影条例などに対応しきれず建設計画は中断された。その後、東京センター建設に立候補、日野市高幡地域の用地買収にとりくんだものの頓挫した。結局、旧立川相互病院の隣地買収の条件が生まれたことから、80年に中期施設計画を立て、拠点病院建設準備に入り、錦町の現在地に東京センターを準備する病院として建設することとした。

患者会活動の始まり

健康まつり

健康まつり

73年に第一相互病院に「意気揚会」、74年に糖尿病患者の「相互会」、75年に昭島診療所に「老人の集い」が発足し、その後、80年代にかけて疾患別の患者会が次々と結成されていった。その主なものをあげると、「腹切会」「心臓病友の会」「たけのこ会」(リハビリ)、「希望会」(腎臓)などである。

略年表 健生会のあゆみ

1973年
新卒青年医師3人を迎え研修を開始
第一相互病院患者会「意気揚会」発足

1974年
新卒看護研修始まる(6人)
立川第一相互・保険調剤薬局を開局
第二相互病院糖尿病患者会「相互会」発足

1975年
立川第二相互病院で劇症肝炎の患者を交換輸血で救命
昭島相互病院患者会「老人の集い」発足

1976年
昭島診療所が病院化、昭島相互病院開設(28床)
健生会創立25周年記念集会

1977年
健生会長期計画(拠点病院構想案)発表
立川第二相互病院で人工透析室を開設
立川市が「ねたきり老人訪問家庭保健指導事業」を開始

1978年
日影条例と補償問題で拠点病院構想が中断

1979年 立川第二相互病院で基準看護特Ⅱ類を取得
健生会と東京民医連がセンター病院建設地を日野市高幡不動と確認

1980年
健生会協力会が発足
第一相互病院が基準看護特Ⅱ類を取得

1981年
保険調剤・多摩薬局を開局
建設予定の新立川相互病院が東京センター病院候補に内定
昭島相互病院が基準看護特Ⅱ類を取得

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