貧しい人たちが力をあわせ、平和と民主的な医療をめざす拠点を誕生させた
終戦直後の立川駅北口付近
健生会が誕生した地である立川は、第二次世界大戦前、北側の広大な地域に陸軍飛行場を擁する軍都であった。北口には「立川陸軍病院」(現災害医療センター)、南口には「東京第二陸軍病院」(現立川共済病院)と2つの軍病院があった。このため戦争末期には猛烈な空襲を受け、多数の死傷者を出し、町も大きく破壊された。敗戦後、進駐してきた米軍により陸軍飛行場は米軍立川基地となり、近隣の横田基地とともに米軍のアジア支配戦略の一大拠点となった。
立川診療所の看板
米軍基地の街・立川に、貧しい日雇い労働者、中小零細商店主、生活保護受給者、在日朝鮮人らの「親身になって自分たちを診てくれる診療所がほしい」という要求と運動によって1951年1月16日、健生会最初の診療所である立川診療所が開設した。現在のクレストホテルの西向いの地に借家の狭いスペースにわずかの医療器具と診療台1つ、職員も医師、看護婦、事務各1人の計3人というスタートであった。診療所開設に向けては、資金不足をおぎなうため地域住民が協力して改修したり、50円・100円カンパ運動でお金を集めたり、医療器械をただ同然の値段で買い集めたりして準備した。
立川診療所の職員と地域の協力者
立川診療所は開設翌年には8床の有床診療所となり、往診も幅広く行ったが経営は苦しく、年末には手分けして未収金を集め、職員みんなでもち代を分け合うということもあった。そんな中でも、手術が始まり、産科が始まり、患者も増えていった。人的体制も、中国帰還組の医師、看護婦が加わり充実してきた。こうした中、経営を安定化させるため、54年に社団法人立川診療所(60年に健生会に改称)として法人化した。生活保護の取得や結核の抗生物質の点数単価切り下げ反対闘争などにも取り組んだ。
全国民医連結成・初代会長の須田朱八郎
東京民医連は1953年5月に1病院29診療所で設立された。その1か月後には22県117病院・診療所で全国民医連が結成され、立川診療所も設立に参加した。全国民医連の初代会長は、後に立川相互病院院長となる須田朱八郎であった。創立時の綱領は政治主義的との批判が強く、2年後の大会で改定され、「親切でよい診療」など2項目の綱領となった。しかし、この綱領にも「民医連の性格や目的が不明確」との批判が高まり、61年まで綱領論議が続いた。
砂川闘争
55年に米軍立川基地の滑走路を北側の砂川町(現立川市の北半部)に拡張するとの通告があった。砂川の農民にとっては先祖伝来の家屋や田畑を守るかどうかの死活問題となり、基地拡張反対同盟ができ、町ぐるみのたたかいが始まった。その中で測量を強行しようとする当局・機動隊と、これを阻止しようとする農民や支援の労働者・学生との間で何回も衝突が起き、闘争は長期化した。このたたかいに立川診療所は医療班を派遣するなど積極的に参加した。59年には東京地裁で砂川闘争をめぐり安保条約と米軍駐留は憲法違反との画期的な判決が出された。結局、米軍は68年に基地拡張を断念、77年に米軍立川基地は撤去され、基地跡地は昭和記念公園などに生まれ変わり、立川の平和的発展につながった。